スタイル以前の問題としてダサイ踊り方は治らない

bboyにはダサイ、かっこいい、普通しかありません。

 

突き詰めるとこの3つだけです。

 

bboyあるあるというか七不思議というか、何十年やってもダサイ奴はずっとダサく、かっこいい奴はずっとかっこいいという現象があります。

 

スタイラーやらパワームーバーやらストロングやら多種多様なスタイルがありますが、それ以前としてのダサさやかっこよさという属性が既にあるのではと考えています。

 

犬として生まれた生物が犬以外になれないように、生まれた瞬間からダサいかダサくないかというダサ値は既に決定されているのでは、と仮説を立ててみます。

 

何も教えなくてもかっこよく踊れる奴

 理解・体現能力の高さ

 

教えることでかっこよく踊れる奴

 理解・体現能力は低いがダサ値は低い

 

自分でかっこよさを作り出せる奴

 ただの天才

 

教えてもかっこよく踊れない奴

 ダサ値が高い

 

生来備わっているダサ値が高い場合、何をしようがかっこよくなりません。

 

そしてこのダサ値が高いという中にも分類があり、そもそも何がかっこいいのかわからないという認知力が低い場合、何がかっこいいかは認知できるが体現することができない場合、ダサいのがかっこいいと確信している場合等々、色々あるにしても、最終的にダサいという枠組みから逃れられないパターンが往々にして見られます。

 

どれだけ年を取ろうが生まれたばかりの赤ちゃん時代の面影を残すことと同じように、始めたばかりにダサさの片鱗が見えるとそれを完全に払拭するのは容易ではありません。

 

実はあらゆるダンスの中でも、bboyingは最もダサさを覆い隠し誤魔化せるジャンルでした。

 

bboyingには6歩、ウインドミルに代表されるように強烈な型があり、それを模倣するに留まる時代が長らく続きました。

 

型にハマるということは無私ということであり、そこにダサイやらかっこいいという概念はありません。

できるか、できないか、という観点のみしかそこには存在しえないからです。

 

厳密に言えば、黎明期からダサい、かっこいいの概念はあるにはありましたが、そこに至れるほどに技術も見る目も養われていなかったことから、bboyingにおいては長らくダサイbboyだらけの時代がありました。

 

それがインターネットの隆盛やプレイヤー人口の増加に伴い、技術の進歩・確立、評価眼の向上を促進し、今や誰でも認知力さえあれば何がダサく、何がかっこいいのかということを言語化はできないにしても感覚的に捉えやすい時代となっています。

 

それでもなおダサイbboyがいる、ということは視覚から得た情報が脳内で適切に処理されていない、又は運動器官に適切に伝達することができない、あるいはその両方か、というところに帰結するのかと思います。

 

テクノロジー、文化、技術の進歩とはまったく異なるアナログな次元において、ダサイ奴はいつまで経ってもダサイという現象は永遠に続くのかもしれません。