ブレイキンはロス五輪では追加競技候補から除外

2028年のロス五輪では残念ながらブレイキンは追加競技候補から外れてしまいました。

 

ロス組織委はブレイキンを追加競技候補から外した理由を明らかにしていない、ということから読み取れるものとしては以下となります。

 

■発祥国であるにも関わらずメダル獲得の可能性が低い

 現在の世界ランキングを見てもわかるとおり、トップ5中USAは一人のみとなっており、パリ五輪ですら正直USA選手がメダルを獲得できるか怪しいものがあり、ましてそれが4年後であれば不確定要素が強すぎます。

 それであれば、よりメダル獲得の可能性が高い競技を優先することは自明の理となります。

 相撲は日本の国技ですが、近年の横綱はモンゴル人ばかり、といった様相と似ているのかもしれません。発祥地であるからと言って、競技という観点から見た場合には必ずしも勝つわけではない、ということです。

 ただその一方で、ブレイキンというカルチャー全体を俯瞰した時に、発祥国であるUSAはやはり他国と比較し明らかにカルチャーの体現度が高く、「なんかめっちゃかっこいい」bboyの排出率が群を抜いています。

 なんかめっちゃかっこいいbboyほど、オリンピックに対して「まぁそういう解釈もありかもだけど俺は出ないよ」というスタンスなのかなと勝手に思ったりしてます。

誰かにスコアを付けられるためにbboyをやってるわけじゃない、というポリシーはbboyっぽいと言えそうです。

 

2032年のブリスベン五輪においてブレイキンが再度競技として採用されるかどうかは今後のブレイキン界の動向に非常に大きな意味を持つと考えられます。

やはり世界最高峰の競技イベントでメダルを獲得できる栄誉は何物にも代え難い価値があります。どれだけ社会が発展したとしても、メダリストは伝統的権威を持つ世界的栄誉なわけですから、それをブレイキンで達成できることは一般社会的にはBC ONE王者以上の価値があると考えられます。

そうなると、今後オリンピック出場を狙う若いbboy達は、採用されるかどうかわからないが、今から8年後を見据えた長い闘いが始まることとなり、盤石の地位を築いている他メジャー競技選手と比較すると精神的にかなり辛いものがあるかと思います。

もしかしたら今後採用されることが無く、一回きりのオリンピックとなる可能性も0ではありません。

現在の盛り上がりに水を差すような大人の事情でbboyの地位が乱高下することはあまり好ましくはないと思っていますが、パリ五輪終了後にブレイキンが社会に定着していくかどうか、という点がまず今後を占う分水嶺となることは間違いないでしょう。

bboy steezy skee

日本では珍しいフレイバーがワールドクラスのbboy

bboy不毛の地として有名な北海道出身のbboyであることも興味深い点である。

北陸以北からワールドクラスのbboyが輩出されることは稀で、その中でもオールマイティフレイバー系となると非常に特異であると言える。

 

北海道出身で最も有名なbboyと言えばモータルコンバットのshunjiが挙げられるが、キャリアを見ると大阪bboyと言っても差し支え無く、本来のその土地でキャリアを積み上げてきたという意味では北海道初のワールドクラスと言える。

 

bboyネームもhoktからsteezy skeeとした時点で、明らかに別次元に進化しており、bc one2007のtaisukeを彷彿とさせるような超進化が見て取れる。

 

フレイバーの権化であるbboy bornと比較しても遜色無いレベルであり、競技型に特化しつつある日本のトップbboyとは一線を画すスタイルは貴重である。

 

bc one本選の出場に際し期待が持てるbboyであるが、オリンピック型ではないかもしれないという懸念がある。

とは言え、オールマイティ型のbboyであり、大会によりスタイルを自在に調整してくる器用さは当然持ち合わせていると予想される。

 

新時代のjapanese bboyを語るにあたり外せないbboyの1人である。

90s japanese bboyが完全に破壊された日

boty2000であると言える。

Flying Steps vs Waseda Breakers

言わずと知れたboty2000決勝カードであり、日本初のboty決勝進出である。

 

japanese bboyからすると悲願かつ歴史的出来事であった。

 

バトルの内容を率直に言ってしまえば完敗である。

 

玄人目線、素人目線、等々評価基準は一様ではないにしても、bboyingの高度化が顕著に表れ始めた年でもあり、誰の目から見ても90s japanese bboyが破壊されたとしか言いようがない内容であった。

 

flying stepsがホームグラウンドであることを差し引いても、当時チート級のbboyであるbennyが圧巻のパワームーブで全てをひっくり返してくる様は潮流の変化を感じさせるに十分であった。

 

語弊があるかもしれないが、wasedaもとてつもないcrewであることに間違いはない。

 

しかし、価値基準の大転換、ゲームチェンジが生じた。

 

それまで長年水平拡張に甘んじていたパワームーブ、スキルが溜めに溜め込んでいたと言わんばかりに超絶進化をし始めていた時期であるからだ。

 

bboy史においては、エアートラックスの連発が象徴的な出来事であり、パワームーブ・スキル黄金時代が幕を開けることになる。

 

ある意味では、boty2000では新時代vs旧世代という構図でもあり、明らかな世代交代劇であったとも言える。

 

wasedaがもう1年、2年早くにboty決勝に進出できていれば優勝もありえたかもしれない、ということを申し添えておく。

2000年代を契機にbboyingは鑑賞に堪えうる身体芸術に昇華された

明確に何年何月ということは言えないが、2000年代を通してbboyingは鑑賞に堪えうるものになったと言える。

 

それまでは、部分的に鑑賞に堪えうるものであったと言える。

 

全てが過渡期であり確立されていない不安定な時代

 

誰も答えがわからず足掻いていたとも言えるし、まるでスープをお玉でかき混ぜている最中であったように思う。

 

そんな中でもbboyの代名詞でもあった伝統的なグラウンドムーブに関しては90年代が頂点であり、鑑賞に堪えうる数少ないムーブの1つであった。

そんなグラウンドムーブも2000年代から徐々にすぼんでいってしまう。

より高度な技術の開発、普及、伝播によりもうそれ以上追求する理由がなくなってしまったからだ。

それは現代においてレコードで聞ける音楽をさらに高音質にする試みをする必要性、需要が無いことと同じである。

過去の遺物を水平拡張する必要性がない、というのは必然である。

マンモスを倒すために磨き上げられた石器をを使うよりも銃を使えばいい。

そもそもマンモスはいないし、仮にいたとしても現代においては倒す必要性すらない。

時間が有限である限り、パラダイムシフトが起こった時点で注力の対象は劇的に変化する。

とは言え、いささかの寂しさがないわけでもなく、温故知新として新たな可能性がそこにないわけではないと信じている。

 

さて、話を戻すと、視覚的完成度の向上に寄与したのは、エアートラックスやエアチェアなどのエアー系テクニックの安定化、トップロックの進化、フットワーク・フロアームーブの変化、ミュージカリティ・ファンデーションの高度化に他ならない。

 

言ってしまえば総合的に全てが高度化したのである。

 

不可能が次々と可能になり、猫も杓子もできるようになるとカンブリア爆発よろしく、とてつもない進化をbboyingにもたらすこととなった。

 

2000年代はまだまだ分業化の時代ではあったが、ほぼほぼ現代のbboyingを構成する要素が出そろった時期でもある。

そして、オールマイティー化というあるべき進化の極致

 

いかに全てを高度にこなせるか、という次元に行き着いたのが現代bboyingである。

 

1つ1つがショッキングなスキルのオンパレードであるbboyingを、同時並行的にこなすことが可能になったからこそ身体芸術として申し分ない地位に達したものである。

 

おそらく、人類史上におけるあらゆる身体芸術の中で最も過酷なものであると言い切ることができる。

 

これ以上の身体芸術を求めると人体破壊・生命毀損の方向しかなく、倫理的・社会的に許容されないグロテスクなものとなる。

 

人体改造という分野が発達した場合、bboyingがさらに別の次元に達すると思われる。

DOUBLE AIRFLARE ダブルエアー

Bboy Monkey King

 

bboy史に残るbboyの1人

 

evolutionという観点からするとbc one王者よりも価値のある偉業を達成した。

 

2023年の現状、bc one王者は何人もいるがダブルエアーができるのは世界でmonkey kingただ一人である。

 

初めてエベレスト登頂を成し遂げたエドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイのように誰も見た事のない神の領域にいるのである。

 

スキル開発はbboyの本懐の1つである。

 

未踏破、フロンティア、evolutionこそがbboyの本質の1つである。

 

誰かが作った勲章よりも遥かに価値がある。

誰かが作った勲章、誰かが作った地位を欲しがるよりも、皆がそれは無理だ、不可能だと言うことを覆し、神話が現実に存在することを証明するかのように、神を殺すがごとき所業はまさに神聖で不可侵なものである。

 

向こう10年、あるいは1年でダブルエアーを体現する者が現れることは想像に難くないと思わせるほどにbboyは頭がイカレている。

SASUKEとBBOYの相似

SASUKEが好きで毎年欠かさず視聴している。

 

肉体の限界に挑む様がBBOYのそれと重なり、手に汗握る。

 

未知の領域を努力で突破する。

 

友情、努力、勝利

 

陳腐で臭くて時代遅れなスローガンはそれでもなお黄金の輝きを放っており、それを体現することは少年達の永遠の憧れでもある。

 

不可能を可能にする

 

impossible is nothing

 

さて、毎年SASUKEを視聴するにあたり、歴年のレジェンド達の直視に耐えがたい局面もBBOYと重なってしまう。

 

後進には口うるさいが、いざ実戦となると、、、ってやつだ。

 

老兵はただ去るのみ、ということはテレビの性質上できないのかもしれないし、本当は本人達ももう出たくないのかもしれない、等々本心は本人以外わからないが、醜態を晒すくらいならば表舞台に出ない、という選択もある。

 

それが、BBOYとなればただただ本人の選択次第であるが故に失笑を禁じ得ない場面が多々ある。

 

ベテラン、レジェンドはその存在に意味がある。

 

それが故に自己のムーブを正当に評価されないきらいがある。

 

誰もが何も期待していないのである。

 

レジェンドが動いた、往年の技を繰り出した、この年齢でブレイクダンスをやっている、ということに沸くのである。

 

これは例えて言えば、老人ホームで幼稚園児がやるようなお遊びをさせられて褒められることと同じである。

 

BBOYとして屈辱以外の何物でもない。

 

既成概念を破ることを生業としてきたからこそ、今までの自分のイメージを裏切り、新たな価値を見せつけることができるならば、レジェンドのムーブにも意味がある。

 

それができないならば屈辱を浴びるだけであり、踊らない方が1000倍マシだ。

youtube「UNITED JAPANESE BBOYS」

表題のとおり

 

90年代からbboyをやっている者からすると共感することしきり

それと同時に話したことがない者同士でも同じ感覚を共有していた、ということの確認にもなる貴重な資料映像

 

脳・人体の構造を考えると考えられないレベルで急激にシーンが発展した奇跡的な時代が存在する

 

本来ならば数年、あるいは数十年かけなければそのレベルに達しないはずであるにも関わらず、それが1年もしくは数カ月単位で覆されてしまったオーパーツ的な時代でもある

 

凄まじいスキルを見た場合、習得に数年、あるいは一生できないかもしれない、といった諦観ありきの一縷の望みにかけるといった具合であったものが、とてつもないスピードで歴史が塗り替えられていき、モンスターbboyが次々と過去のものにされていく様を数えきれないほど見てきた

 

今でこそ普遍的技術のエアートラックスも過去には現代におけるダブルエアー並みの価値があった時代がある。しかし、エアートラックスが稀有な時代は、後から考えればbboy史においては瞬きほどの一瞬に過ぎなかったのである

 

それほどまでに、bboy史は激動そのものであった

 

youtubeでも述べられているとおり、価値観においても同様であった

 

最高の価値があったものが翌日にはその輝きを失い暴落するのである

 

長年心血を注いできたものが雲散霧消するのである

 

まるで夢幻のごとく

 

驕る平家は久しからず、老兵は死なずただ去るのみ、を高回転でサイクルさせる鬼畜仕様は2000年代初頭に確立されている

 

習得に膨大な時間を要するにも関わらず、めまぐるしく変遷するシーンはその価値を維持させない、という強者生存、弱者必滅の原理がこれ以上ないほどに効いている

 

進化を止めた生物、環境に適応できなかった生物はすべからく滅ぶ

 

地方に居座るオーバーエイジ層は化石、あるいは死してなお現世に未練を残す亡霊、アンデッドといったところか

これはbboy正史とは全く異なる論理でシーンとして存在しており、これはこれで人は老いることを考えればbboyが誕生した時点で想定内の出来事であり、それはそれで楽しんで、という寛容な気持ちでいる

 

しかし、bboyの本質とは著しく乖離しており唾棄すべきものでもある

 

no limit 限界を超えていくことだけがbboyの本質であるからだ

 

それでは何をもって限界を超えていくとするのか

 

肉体的な限界突破は誰にでもできるし、その権利を阻害されることはなく、その行使は本人次第であるが、いずれ老いとともに下降線を辿ることになる

 

しかし、bboy史においては肉体的な観念以外にも精神的な観念が存在する

 

圧倒的な肉体的劣後においても、bboyはマインドで対抗しうる、という場面は枚挙に暇がない

 

明らかにスピードも、技術も、手数も負けているにも関わらず、マインド部分で圧倒

 

これがbboyがカルチャーでありスポーツたりえない理由の最大のものである

 

マインドにおいてもbboyはbboyたりえるのである

 

以上を踏まえた上で、bboyにおけるオーバーエイジの定義は肉体的にも精神的にも進化を止めた者、言い換えれば自分で勝手に天井を決めてしまった者となる

 

こうした者も数多く見てきた

 

驚異的なスピードで新陳代謝を行うbboy界において、新陳代謝を自ら機能停止してしまった者

 

俺は一生bboyと言っている者ほど、つまらないプライドにこだわり変化を恐れ、シーラカンスのようにいつまでもそのままでいる

 

アンデッドbboy、シーラカンスbboyになるべからず