現実社会におけるbboyの意義を再考する

コロナ&GWということで改めて本ブログの題名について再考しようと思います。

 

ブログを始めた経緯が、bboyingは現実社会にはほとんどフィードバックされていないという思いからでした。

 

口を酸っぱくして言っていることですが、世間様は本当にbboyingに興味がない。

 

マジでどうでもいい。

 

あってもなくても別にどうでもいいという感じです。

 

これってbboyであるならばほとんどの人が実は経験していることだと思うんですよね。

 

自分は世界で一番かっこいいと思っているけど、世間は1ミリも興味・関心がないという。

 

そんなことねーよ!

 

という人がいるならば逆に問いたいのですが、ゴールデンタイムにbboyingをメインとした番組が恒常的に放送されたことがあるでしょうか。

ニュースで毎日のように結果が放送されていたでしょうか。

一過性的にはありましたが、本当に一瞬です。

 

ダンスが義務教育に組み込まれて何か大きな変化がありましたか。

 

そもそも義務教育に音楽が組み込まれていますが、義務教育に組み込まれているからと言って誰もが音楽家になるかといえばそうではありません。

むしろ改めて嫌悪感を抱くことすらあります。

多少の裾野の開拓にはなるかもしれませんが普及には程遠いかと。

 

はっきり言ってbboyingに社会は興味がありません。

 

暇潰しなら見てやらんこともない、というスタンスです。

 

そんな態度なら見なくてもいい、というのもプライドの高いbboyのスタンスです。

 

個人的にはそれでいいんじゃない、という気持ちもありますが、bboyingに金の臭いを嗅ぎつけた連中はそうもいきません。

 

いくら綺麗ごとで包み込んでもそれは隠し切れないんですよね。

 

でも別にそれが悪いことだとも思いません。

 

bboyingで生活ができるということの証左に他なりませんから。

 

ディスり風の言い方をしましたが、bboyingで生活できるならそれに越したことはありません。

それだけの代償を支払っていますから。

 

しかし今般のコロナウイルス等の緊急事態において、こうした娯楽産業は致命的な打撃を受けることも白日の下に晒されることになりました。

 

優先順位としてはかなり下ということは明らかでしょう。

 

衣食住が揃い、健康を脅かされない上でしか娯楽は成り立ちません。

 

余裕のある者だけが娯楽に興じることができるのです。

 

しかし、1つ矛盾があるとすれば、清貧を貫き余裕が無い状態でも娯楽に邁進するbboyとは一体何者であるのか、という点です。

 

果たしてbboyingは娯楽なのか。

 

中にはコミュニティへの居場所を求めるためだけに惰性で継続する堕落した者もいますが、基本的にはスキルの向上、勝利という目的しかありません。

 

自分の限界を知ってしまい、ぬるま湯に堕ちた時点でbboyとして終わりなのか。

 

まだ、意義は見いだせていない。