BBOYINGにEmotionalityの評価基準が入らない理由

BBOYINGはスポーツとは一線を画する。

 

BBOYINGはどこまでいってもダンスであり、ダンスはアートの括りとして存在する。

 

アートを定義することは難しいが、感情を揺さぶられるような感覚を与えることが最も肝要なのではないかと考えている。

 

スポーツにおいても感情を揺さぶられることはある。

 

しかし、アートで得る感覚とはまったく異なる種類のものである。

 

スポーツはあくまで数字が絶対的なものとして君臨しており、勝敗が全てである。

 

もちろん過程の鬼気迫るプレイによって感動することはある。

 

しかし、結果を出せず負けてしまえばそれも気休めに過ぎない。

 

どんなに素晴らしいプレイも負けてしまえば意味が無い。

 

しかし翻ってアートはどうか。

 

実は本質的には勝敗が無い。

 

突き詰めてしまえば俺は好きだけどお前が嫌いならそれはそれでいいんじゃない、という世界だ。

 

BBOYINGも数字を出そうと思えば出せる。

 

しかし、1万回のエアーや超高速エアーより、目が覚めるような踊りの方が遥かに価値がある、というところにダンスとしてのBBOYINGの本質がある。

 

BBOYINGがスポーツならば誰よりも回ればよく、誰よりも速ければいいがそうではない。

 

極論を言えばクラッシュしても感動させることができたならばそれは成功以外の何物でもない。

 

ただし、競技性が高まっている昨今において、どんなに素晴らしいムーブをしても負けてしまえば意味がない、という風潮が無いわけではないということも付記しておく。

 

話を戻そう。

 

回数でも得点でもタイムでも無ければ、どこまで感動させることができたか、ということも評価に加える必要がある。

 

音楽性やフレイヴァーが内包的な要素として関連を匂わせるものではあるが、明確に感動したか、しないか、という点における言及は今のところ存在しない。

 

おそらく、過去数多のBBOYがその必要性は感じてはいただろうが、あまりにも曖昧で客観性を失うことから常に忌避されてきたものだと考えている。

 

感情を揺さぶられたかどうかという点は非常に感覚的・主観的な問題を孕んでおり、結局はジャッジの好みというところに行き着いてしまう諸刃の剣であるからだ。

 

そして、見栄えはいいがしょーもないことでバカ沸きしてしまうオーディエンスにつられてそこを評価点として加点してしまう愚かなジャッジが存在していることも問題だ。

 

理由を聞いても「感動したから」で済まされてしまい、そこに合理性が割り込む余地は無く、正確に言語で説明することが難しい。

 

要は、必要ではあるが客観性・公平性に欠ける危険性が大きく、導入することが非常に困難だと言える。

 

上述の通り、根幹を成す部分でもあるにも関わらず避けられ続けてきた歴史、そして今後オリンピック等の競技性が高まる趨勢を見るに、おそらくEMOTINALという部分は今後も見て見ぬ振りをされることになるだろう。