bboyingには「演出」の概念が希薄である

bboyingには演出の概念が希薄であり、ここに価値を見出せない層が大多数である。

 

これは別にbboyingのスキルや見せ方と言った次元の話ではなくマスに向けた資本主義に受け入れられるためのアートとしての演出である。

 

オリンピック種目については数値が全てであり、アートとしての側面は皆無に等しい。

 

ゴッホピカソの絵を数値化して競わせることはできない。敢えて言うならば価格位だろうが、これも所詮は資本主義の原理に則った数字に過ぎず、疑問を差しはさむ余地は大いにある。

 

余談はともかくとして、演出についてである。

 

ソロの価値が高すぎるあまり、群舞への関心がイマイチな状態ではあるが、客観的に独舞よりも群舞の方が総合的な価値としては圧倒的である。

 

商業的な成功を収めるにあたり、bboyingの高度な演出を伴った群舞化は避けて通れないところである。

 

逆を言えば、ここで絶対的なノウハウを得てしまえば先駆者として多大な見返りを得ることに他ならない。

 

群舞の完成度については韓国が飛びぬけているが、しかしまだまだあらゆる演出を放り込む余地がある。