アジア的観念に対するカウンター

他文化は意味を持たない記号が故にクールな概念として成立する。

 

漢字より英字の方がなんだかオシャレに感じるのは、漢字、いわゆる日本語には「意味」としての主張を伴ってしまうからである。

 

「意味」さえ理解できなければそれは「記号」として認識される。

 

記号であることこそが「クール」の根源である。

 

慣れてしまい意味がわかっているものに魅力を感じなくなるのは人類の性であり致し方ないことである。

 

よくわからないものほど魅力的に映る。

 

これは黎明期のBBOY達にも言えることで、アジア的なものがクールに見えていたからこそBBOYのムーブにアジアを彷彿とさせるものが数多く登場する。

 

座禅や忍者、カンフーなど、意味はよくわからないが単純にクールに見えていた、ということの証左に他ならないだろう。

 

あまりにも文化が違い過ぎると記号としてしか認識できなくなってしまう。

 

しかし、文化においてややこしいことは、依然として残る差別的思考も内包してしまっていることである。

 

支配階級であった白人、奴隷であった黒人、原住民であったインディアン、混血、そして欧米列強に蹂躙された黄色人種

 

本来文化に優劣はない、という建前はあるにせよ、白人の作りだした資本主義的思考に依れば厳然たる優劣が存在することは否定しようがない。

 

自国より経済や教育が劣っている国に対する蔑視というのは歴然として存在する。

 

これは個人間ですらそうなのだから、国単位で見ればもうこれ以上ないくらいに明らかである。

 

例えばまったく理解しがたいほどに国力が低い国の文化を真似たいか、と問われればそうはならない。

 

下位の者に対する蔑みは人間固有のものであり除去しがたいものである。

 

かと言って上位の文化をそっくりそのまま真似ても滑稽になるだけである。

 

ギャングのギャの字も無く、銃社会でも無い日本で銃を扱うジェスチャーなど寒いを通り越して痛々しいの極致である。

 

そう考えるとA-BBOY達は日本人としてBBOYINGを自国にフィットさせたと言えなくもない。

 

しかし、BBOYINGに必要なのは自分達の慣れ親しんだ文化にフィッティングさせることよりも多文化を貪欲に取り入れることである。

 

日本に渡ってきたBBOYINGは日本的な要素を取り込みつつ、さらに日本から見た多文化を適正に取り込むことが求められていく。