パリ五輪に向けて地上波でブレイクダンスのイベントやニュースが競技として放映されるにあたり感慨深いものがある。
が、やはり想像していたとおりまったく面白くない。
まぁこれは個人の主観であるためまったく問題ではないし、想定内である。
これはもう経験者が故に純粋な気持ちでフィルター無しにブレイキンを見られなくなってしまっていることもあるし、ダンスそのものよりもこのカルチャー自体が飛躍しているというフレームの変化に意識が向いてしまうためで、大多数の初見勢の一部には刺さっており、新鮮な感動を与えていることは間違いない。
ブレイキンそのものに対するファーストショックは貴重なものだ。
シーンの発展とともに都度見せつけられた限界突破のニュームーブ、ニュースキルによる感動も回数を重ねるごとに薄れ、あらかた掘り尽くされている。
ここからはよほどコロンブスの卵的価値転換に値するスタイルが登場しない限りはフィジカル一辺倒になることは想像に難くない。
ベテランは良く言えば目が肥えているとも言えるし、悪く言えば過去の価値観に引きずられ刺激に慣らされてしまった老害とも言える。
ブレイキンはアンダーグラウンド一辺倒で、おそらくこのカルチャーの本質を保持するためには永久にカウンター側でいる必要があるのだろうとタカを括っていたら、気が付けばオーバーグラウンドとクロスオーバーし、なんならどちらにも居場所がある、という状況は改めてブレイキンカルチャーがスポーツとしての概念も受容できるまでに成熟しているとともに、貪欲に吸収し続けることこそがこのカルチャーの本質であると認識を改めさせられるものである。
さて、本題であるオリンピックナイズされたブレイキンのつまらなさについて
これは想定内である。
オリンピックの枠内に収められたカウンターカルチャーが陳腐化するのは当然
ブレイキンのカウンター感はスケボーやスノーボードの比じゃない。
ジャスチャーがオリンピックの精神と真逆の方向性を有しており、リスペクトと侮蔑という相反する概念を矛盾なく混在させえるのはブレイキンの醍醐味の1つでもある。
俺の方が凄い、ということをダンスという表現方法を介し、その表現範囲内であらゆる手段を用い優位を誇示することがブレイキンの本質の1つである。
オリンピックナイズされれば自然そういった傾向は薄れる。
決まり切った審査基準に則り、その審査基準で高得点を得られることに意識が向かえばそうならざるをえない。
そういった意味ではオリンピックナイズされたブレイキンはまったく面白くないが、社会的な認知及び地位向上という意味ではこれ以上ないほどに順調である。
ただ、個人的には解説は音楽に集中できず興醒めするので止めてほしい。
例えば、絵画を見ている時に横から訳知り顔の蘊蓄マンが延々と説明し始めると興醒めすることに近い。
その絵画を見た時に感じた自分だけの感動を犯される、削ぎ落される虚無感というか。
字幕位なら許容範囲
音楽が一番大事なのにその音楽を邪魔しないでほしい