その地域を代表するbboyを見ればシーンが見える

面白いことに、いくらネットが発達しても地区ごとの特色というのは依然と存在している。

 

何故かと言うと、自らが属するシーンは最も過ごす時間が長く承認を得るにあたり第一次的なコミュニティだからである。

 

凡人は生活圏内での承認がまず第一義である。

 

天才は生活圏内を無視しあくまでネットにより最前線を追い続ける。

 

しかし天才はほとんど存在しない。

 

であるがゆえにコミュニティにおける承認を優先するため、自らが属するコミュニティで評価されるスタイルに偏向するきらいがある。

 

その地域のbboyがどの程度のレベルにあるか、どういった傾向のスタイルを好むかは、その地域を代表するbboyを見ると比較的わかりやすい。

 

各地域ごとに有名なbboyは当然地元のバトルでは負け知らずであり、それを見ている周囲のbboyは「それが評価されているスタイル」だと認識し、最前線の状況はともかくとして(そもそも真似できないほど高レベルであるため挫折することがほとんどであるが)地元のTOPに流される傾向にある。

 

各地方ごとに特化した部分がある、というのが現状である。

 

しかしこの特化の弊害として、スタイル系の土地であればパワー・スキルが異常に弱く、パワー・スキル系の土地であればスタイル・音楽性が異常に弱い、というアンバランスさを生じさせている。

 

bboy界の今後を鑑みた時には、やはりスタイルに特化しすぎている地域は厳しいと言わざるを得ない。

 

パワー・スキルをないがしろにできた時代は一過性のものであり、今後苛烈な競争が確実なbboy界において時間のかかるパワー・スキルは必須のものであり、そもそもがbboyの必要不可欠の要素として組み込まれているものであるが故にやはり軽視することは得策ではない。

 

自己満足のためだけならばそれでも一向に構わないが、先に棘の道を歩んだ方が後々楽になることは自明の理である。

bboyのジャッジシステムはいまだ確立されていない

bboyのジャッジシステムはいまだ未完成のままであり、これは身体表現を評価することが根本的に不可能であることと密接にリンクしていきます。

 

評価が簡単に覆ってしまう危険性が他の種目もよりも高い点。

 

そもそもジャッジとしての資質が欠如しており、論理を理解していない者がジャッジをしている点。

 

全てを飲み込む広範性により単純な数値化が困難である点。

 

買収の危険性が存在する点。

 

身内贔屓を排除できず公平性の担保が不可である点。

 

評価項目が存在していたとしても評価単体の数値化はジャッジの主観であり、実質的には評価項目の設定が形骸化している点。

 

挙げ始めるとキリが無いのですが、こうした矛盾を自覚しながらも評価を推し進めていかなければいけないため、実質的に歪みがあるにも関わらずそうと意識されることは少ないのかもしれません。

 

あのジャッジはこういう傾向にある、という認識が他種目と比較し顕著な時点で健全ではありません。

 

あのジャッジなら優勝できるがこのジャッジだと予選落ちだ、ということがまかり通るのが現状です。

 

認知バイアスもかかりやすく有名だから勝ち、ということも往々にして発生しています。

そこには忖度も付加されており、ちょっとした接待状態です。

 

また、そもそも現代の動きを理解していないベテランがジャッジに入ることも問題であり、これは踊れてナンボ、えげつなくてナンボの世界であるからこそのパラドックスであり、見るのとやるのは大違いが大原則としてあらからこそゆえと考えています。

 

しかし、こうした思考はまたbboyの批評文化の妨げでもあり、できなかったら批評も批判もしちゃだめなのか、といういつまで経っても日の目を見ない閉塞性を深めてしまう結果にもなりかねません。

 

電光石火のスピード

 

尋常ならざる筋力

 

驚異的な柔軟性

 

驚天動地のクリエイティブ性

 

アーティスティクな音楽性

 

全てを保有しているならばまだしも、必ずいずれかの要素に偏向せざるをえない中で公平なジャッジというのはほぼ不可能というのが現状であり、今後もこの問題が解決されることは無いでしょう。

bboy界あるある~流行りに乗った時点で終わる~

流行りに乗った時点で終わる。

 

もう少し詳しく言うならば、流行りに乗った時点で成長が止まる、ということである。

 

各年代のbboyを見るとその年代ごとに流行した、いわゆる一世を風靡したbboyのシグネーチャームーブを得意とする傾向を見ることができる。

 

大衆は流行に逆らうことができない。

 

大衆は常に愚かである。

 

容易に扇動可能なことはbboy界も例外ではない。

 

オリジナルが流行れば体裁もcoolさもドブに捨てオリジナルを追及し

 

ヘッドスピンが流行ればとにかくヘッドスピン

 

アチェアが流行ればとにかくエアチェ

 

ZULUスタイルが流行ればとにかくZULU

 

軟体が流行ればとにかく軟体

 

スレッドが流行ればとにかくスレッド

 

さらに事態を重くしているのが、いくら流行と言えども人間の体はそんなに早く適応することができず、それ相応の対価を支払う必要があること。

また、固定観念の塊であり、脱皮するために喜捨をすることが非常に困難であることが挙げられる。

つまりその時代に評価されやすいムーブを会得するために時間をかけて自分の動き(単なる流行り、バイト、パクリではあるのだが)に組み込んだはいいが、賞味期限のサイクルが短くなっている以上すぐに腐り、腐っていることを自覚しながらも注ぎこんだ時間を考慮すると手放すことができないジレンマに縛られた時点で bboyとしては死んだ、と言って差支え無いかもしれない。

いわゆる損切りができない、ということだ。

長期保有し愛着が湧いているが故に暴落し続けてもそれから逃れることができなくなる。

浮かぶ目が無いにも関わらず。

 

時代を彩ってきた様々なムーブは必ず基礎に収斂する。

 

その時代には超人的と思われた動きも、数年もすればキッズ達が基礎としていとも容易くこなしてしまう時代だ。

 

次から次へと課題を投げかけてくるbboyムーブメントへの最適解は、自らが新たなムーブメントを起こすことである。

しかしこれは一握りの天才だけが成しえる偉業であり、凡人には不可能だ。

それならば、ニュームーブに臆せず常に挑戦し続けることだ。

 

bboyの99%は謙虚さに尽きる。

 

常に自分は初心者である、という意識である。

 

年数を重ねると驕り高ぶり、賞味期限が切れ腐臭を放つムーブに固執してしまう。

 

常に自分は学習者であることを自覚していれば一生bboyingを体現し続けることができるかもしれない。

bboyによる大量生産・大量消費・大量放棄と過去

現代はすべてにおいて大量生産・大量消費・大量放棄の時代です。

 

bboy界においてはこれがインターネット、ひいてはyoutubeの隆盛とともに発生しました。

 

もはや人が一生をかけても見きれない位にbboyingの映像や知識が溢れています。

 

ダビングのしすぎで、もはやスローで見ても何をしているかよくわからない映像を見ていたり、そもそも映像資料を得ることができずにテレビの断片的な動きだけが指針だった世代からすると夢のような時代です。

 

行きづらくてしょうがなかったアングラ感漂うダンススクールも、今はとてもオープンで数にしても検索するとアレコレと出てきます。

 

イベントの数もbboyの数も飛躍的に伸びました。

 

その分だけ1つ1つの印象が薄まるのは当然のことなわけで。

 

世界一があちこちにありイベントの権威は相対的に落ちざるをえません。

 

もてはやされていたものが廃れるペースや飽きられるペースが明らかに速度を増しています。

 

まだそんなことやってるの?と。

 

でもそんなこと言ったって身体能力はそんなに速く成長しないし、新しい技だって思いつかないし、無茶なこと言うなよ!ってところです。

 

このへんで諸々の諸事情込みで前時代のbboy達は淘汰されていきます。

 

アップデートしなければいけない期間、賞味期限のデッドラインが明らかに短く前時代のbboyでは間に合いません。

 

イベントが少なくて嘆いていた時代がまるで嘘のように石を投げればイベントに当たるような時代です。

 

こうなると、bboyの命題でもある「フレッシュ」が頭をもたげてきます。

 

イベントの度に観衆はフレッシュを求めてきますし、飽食状態と相まりその切迫感たるや。

 

地方の一部やしょーもないイベントであればスピードやキレを増すでもなく開き直って毎回同じことだけやったりどこかからサクっとパクッてきたネタをお披露目すれば後輩や生徒からパチパチされてご満悦、良かったね、で話は終わるのですが前線に向かおうとしているbboyはそうもいきません。

 

常にオリジナルでフレッシュなムーブを構築することに追われています。

 

まぁある意味これだけムーブが溢れている時代ですから既存のものを掛け合わせるだけで新しいムーブを構築しやすいメリットはありますが、根本的に新しい原理のムーブを作るというのは非常に難しいものです。

 

結論としてはまとまりませんが、現代の大量生産・大量消費・大量放棄に対抗する術はありません。

 

過去に戻ることなどできません。

 

しかし、あえて1つ言及することがあるとするならば、レコードやCDが無い時代のダンサーは一体どうやって日々の練習をこなしていたのか、という疑問について考えてみると面白いかもしれません。

 

想像力を差し込む余地が無くなった現代において、想像力を膨らませる経験自体がインスピレーションの泉である可能性があります。

ベテランはすべからず老害と化す

人はいずれ老いる

 

そして老害と化す

 

身体的にも精神的にも

 

かつて存在した姥捨山がそれを象徴する

 

下の世代からすると鬱陶しくてしょうがなく

 

そのくせ利がない厄介な存在

 

しかし全員が全員老害になるわけではない

 

クリティカルな知識を有し、それを伝承する利あるベテランもいる

 

昔の方がかっこいいbboyが多かったやら特徴があるbboyが多かったやら昔はやばかったやらの話を悦に入ってご高説してしまうようなbboyは明らかに老害認定まっしぐらでありもはやフレッシュでもなくbboyとしては死んでいる。

 

こうした話はbboy界に限らず全てのベテランに言えることであり、もうこれは人間の精神構造上覆すことが非常に困難なことである。

 

人は真似ることでしか成長することができない。

 

そして真似るということは、対象に殊更のリスペクトや感動があったからである。

 

自らが嫌悪感を抱く行為を真似ることはほぼありえない。

 

つまり、自らがリスペクトし真似をしてきた行為は自分を構成するものであり、自分自身でもあり、アイデンティティそのものなのである。

 

当然、多かれ少なかれ人が持ちうる自尊心から自らのアイデンティティを貶めることなどしようはずもない。

 

自己の否定であるからであり、そんなことは容認できない。

 

だからこその懐古なのである。

 

懐古とはつまり保身であり、これこそが成長を鈍化させ停止させ、遂にはいつまで経っても同じようなことばかりするようなbboyを量産してしまう諸悪の根源でもある。

 

なぜか。

 

時代は進み、技術も進む。

 

身体能力だけではない革新的な動きも誕生する。

 

しかし旬の過ぎたbboyはそれすらもできなくなる。

 

人にはキャパがある。

 

自身を構成する要素のみで一杯一杯でもはや洪水のように押し寄せる技術を吸収する余白が無いのだ。

 

ある意味、種として固定化される現象が起きる。

 

始めて数年は流動的だったスタイルもいつしか「自己のスタイル」として確立してしまう。

 

つまり自分の得意なこと以外やらなくなってしまうのである。

 

ダンスにおいて自らのスタイルの構築は非常に重要ではあるが、その弊害として本来成しえたであろう多岐にわたる可能性を捨ててしまう自縄自縛の観念とも言える。

 

さて、ブルーオーシャンであったキッズ、ガールの領域は既にレッドオーシャンであることは以前に述べた。

 

そうなると残されている領域は1つである。

 

ベテラン、いやそれすらも越えたオールドマン達である。

 

bboy界においてベテランという言葉は称賛されるべきものではない。

 

もう身体が動かなくなってきてムーブも同じようなことしかしないんでしょ?という暗喩でもある。

 

そうした今までの既成概念を打ち破る、バトルで勝てる真にベテランと言われる領域こそがこれからの狙い目になるのではないだろうか。

 

正直な話、バトルで勝てもしないのにジャッジやレッスンばかりでふんぞり返ってても誰もリスペクトしない。

身体能力を軽視するbboyは軒並み淘汰される

そもそもが身体能力の高さを求められるジャンルであるbboyingではあるが、表舞台で勝つためにはさらなる身体能力の向上が求められるのが現状である。

 

一時期フレイヴァーやback to the basicの流れはあったものの、そうした思想も取り込みつつ歪みを正すかのように身体能力至上の本来的な姿に戻っている。

 

bboyには本来的には4つの要素がある。

 

toprock、footwork、powermove、freeze

 

今はシーンの成熟とともにknowledgeの要素も追加されているが、個人的にはskill、music、fravor、fashion、originalの要素も追加する必要があるのではないかと思っている。

 

いずれにしても基本の4原則すべてが高度な身体能力を求めるものばかりである。

 

さらにこれらを研鑽していかなければいけない。

 

現在は一部が突出していてもどうにもならず、言葉は悪いが自己満足に留まっていると考えて差支え無い。

日本人から新しいダンスジャンルが生まれないのはなぜか

ストリートダンスが誕生してからというもの、今現在日本発のジャンルというのは存在しない。

(筆者の不勉強なだけで誕生しているのかもしれないが聞いたことがないし、広がりを見せていることも認識はしていない。)

 

オールドスクール、ミドルスクール、ニュースクール。

 

オールドスクールに関してはただただ右へ倣えしていた時期であり、日本人がその生誕について関与する隙間は一切無かったと思われる。

 

ミドルスクール、ニュースクールに関しても輸入を待っていただけに留まり、その誕生に関与していたとは考えづらい。

 

今のところ日本は与えられた枠組みの中でいかに切磋琢磨するか、というステージにいる。

日本のダンススキルは非常に高い。

だが、これは常々言われることでありステレオタイプ的なため個人的には好まない考え方だが日本人は0から創造することが苦手であり、既存の技術を高めることに長けている、という観念にダンスジャンルすらも合致してしまっている。

 

なぜ日本から新しいストリートダンスのジャンルが誕生しないのか。

 

これは実は明白である。

 

ニュージャンルが発生するための条件を考えるとわかりやすい。

 

新しいジャンルの音楽の発生が必要不可欠だからだ。

 

新しいリズムはそれにふさわしい体の動かし方を自然発生的に付与する。

 

いや、俺はどんなリズムでも同じような動き方で踊れるよ、という方は価値の平行線を辿るだけで時間の浪費となりますのでもうこれ以上読まなくても結構です。

 

話を続けると、踊るにふさわしいリズムを備えた音楽ジャンルが先に産声をあげていなければならない、ということであり元をただすと日本発のダンスミュージックが存在していない、ということに他ならない。

 

無理矢理新しいダンスジャンルを生みだすことはできるかもしれない。

 

しかしそれにふさわしい音楽が無いならばそのダンスには何の意味もない。

 

それこそサイリウムダンスやオタ芸と言われる動きはニュージャンルではあるが、これはストリートダンスの流れを汲んでおらず、まったく別種のものでありこれをストリートダンスと容認することはできないし、その動きの特異性や文化的な発生要因からルーティン性に特化したものとして硬直化していく可能性が高い。 

 

ストリートダンスには拡張性と発展性が必要不可欠である。

 

そしてまたストリートダンスには拡張性と発展性が存在する。

 

それはすべてはリズムでありビートから来るものである。

 

オリジナルや個性を追求するとルーティン至上主義となりリズムやビートから乖離していくことは周知の事実ではあるが、これは「人と違うこと」に重点を置きすぎたが故の弊害であり、逆を返すと人と違うことをしなければいけないほどそのジャンルが成熟していることの証明に他ならない。

(だからと言ってリズムやビートが無視されるほどの動きが許容されるか、は別問題である。)

 

さて、日本でなぜ新しいダンスジャンルが誕生しないか、という話に戻る。

 

これは単純明快であり、日本のダンスミュージック界において世界初のニュージャンルが誕生する必要がある。

 

そうなると、先の日本人のステレオタイプの話に帰結し、結局は日本から新しいストリートダンスのジャンルが誕生する可能性は非常に低い、という結論に至ってしまう。

 

しかし、その音楽にマッチしている動きであれば良い、という観点から考えるならば既存の音楽ジャンルから新しいダンスジャンルが発生する可能性も考えられる、というところに日本初のダンスジャンル誕生の鍵があるのではないか。

 

またニュースクールの段階からストリートダンスは停止しており、あまりにも長いニュースクール期間を打ち破るような革命が起こることを期待している。