BBOYの定義とは?
RAPの間のブレイクビーツで踊るダンサーがBBOYである、という点が発祥であることを考えるとこの点が大原則に相当する。
ただ、ブレイクビーツで踊っていれば誰でもBBOYとして認められるわけではなかったようである。
フロアーをROCKできる者だけがBBOYを名乗ることが許された、というような記述を確認できる。
当時の価値観を現代にそのまま適用することはいささか不都合があるため、基本的にはブレイクビーツで踊っていれば誰しもBBOYである、というのが現代の共通認識としていいだろう。
そうすると、この時点でAB-BOYがBBOYとしての枠組みから外れることになる。
この点においては、AB-BOYは「AB-BOY」という独自体系を築いているためさしたる問題ではないかもしれない。
もっと言うならば俺たちはAB-BOYだからBBOYじゃないよ、という確固たるプライドさえある可能性を考慮するとかえって混同すること自体が迷惑になるかもしれない。
さて、次に考えることと言えばBBOYのバトル文化である。
BBOYと言えばバトルであり、バトルと言えばBBOYである。
いかに相手を上回るか。
それだけである。
資本主義も裸足で逃げだす位の実力主義、競争主義が蔓延っている。
本来、バトルで得ることのできるものは勝利からくる自己肯定、他者からの承認・賞賛である。
これは一口にリスペクトと考えていいだろう。
他者からのリスペクト、自分自身へのリスペクト。
リスペクトだけがBBOYの得る最低限かつ最大限のものである。
それ以下もそれ以上もない。
コンテストやイベントとしてのバトルが無い時代に、あなたは勝利したから賞金を進呈します、なんてバカげたことをしていただろうか。
プライドとリスペクト。
それが全てであったはず。
資本主義も真っ青な実力主義であるにも関わらず、資本主義から最も縁遠いアンダーグラウンドかつ無骨な文化がそこにはあったはずで。
バトルする相手を上回ることだけが、BBOYとしての自分の価値を高める手段であると言って差支えないだろう。
つまり、バトルをしなくなった時点でBBOYとしての価値は非常に低くなる。
価値基準が自分本位になってしまうからだ。
バトル文化がある以上、常に評価は他者に委ねられるものであると理解しなければいけない。
もちろん、納得のいかない評価もあるだろう。
その点についてBBOY達はこれまた非情な実力主義から来るシステムを導入している。
コールアウト。
納得のいかない判断をしたジャッジをコールアウトしてこれまたコテンパンに打ちのめせばいいだけだ。
生粋のBBOYであるオーディエンスが勝敗を決めてくれるかもしれないし(BBOYではないオーディエンスの評価は当てにしなくていい)、相手が精も根も尽き果て先にギブアップするかもしれない。
そこで自分が打ちのめされれば素直に非を認め、いつの日かそのBBOYを打ちのめすために練習を続ければいい。
お稽古事でもあるまいし、俺は指導者や審査員の立場だから、、、なんて戯言は寝てから言った方がいい。
逆説的に言えば、指導や審査する立場の者であればBBOYの成り立ちを十分に理解しており、バトルの重要性を理解していないはずがない。
理解していればいるほど、俺はもうプレイヤーじゃないから、なんて年功序列の老害みたいな発言はできないはずだ。
若い頃に一生懸命頑張ったから歳を取ったら楽していいですよ、なんてBBOY文化には似合わない。
そんなダサイことは、どこぞの年功序列のサラリーマンにやらせておけばいい。
生涯BBOYを気取るなら死ぬまでバトルに出続ける覚悟が無いとリスペクトなんか得られやしない。
キチガイじみたスキルの応酬が繰り広げられる昨今のBBOY界において、勝ち続けることなんてできやしない。
血も涙も無い実力主義の世界だからだ。
ただ、相手を上回る、という点において歳を重ねることがマイナスになるだけということがあり得ないのもBBOYの面白い点だ。
とんでもないスキルやパワームーブをしてもひっくり返すことのできる円熟味やフレイヴァーもある。
しかし、バトルに出ることが無ければひっくり返すこともできない。
バトルから遠ざかりジャッジや指導者としてお飾りになってしまった時点でBBOYとしては死に体と言っても過言ではないのかもしれない。